そのあとを息子のロレンツォが継いだ

ナポリ王国と呼ばれるようになる

思いがけず立ち寄ることができた、小さな教会翌日、マドンナ·ダパリ教会さっそく私はパガニカの町を出てを探した。
旅のおもしろさは予期せぬ風景や名所に出会うことである。カーブの途中道に迷って、もう引き返さなければならないと思った瞬間である。
岩壁に張り付くように教会があったのだ。それがマドンナ·ダパリ教会であった。切り立った岩壁の脇にスペースがあり、ふと頭上を見上げるとその岩壁の一部がぽっかりそこに車をとめた。
とくり貫かれ、そこにフレスコ画が描かれていた。外気にさらされてかなり剥げていたが、宗教画であることにはまちがいない。
こんな外にまで神との対話を求めていた人びとがいたのだ。道路より低い位置に建てられたシンプルな小さな道路をわたると岩壁と洞穴の段差を利用し、教会であった。
扉はかたく閉ざされていた。内部に入ることはできなかったが、質素で瞑想にふさわしい清雅な佇まいであった。
案内書によれば、教会内の岩肌に描かれているのはイエス·キリストの生誕物語だという。
歴史的価値があるこのフレスコ画を間近に鑑賞するのは次回のお楽しみ、ということになった。
教会の脇に流れる小川のせせらぎが忘れられない。まるで水が語りかけているような音だった。生まれて初めて水に命があるということをこのとき、意識したのだった。
サント·ステファノ·ディ·セッサーニオおとぎの国ラクイラ市から車で三0分のところにサント·ステファノ·ディ·セッサーニオという長い名前の町がある。

フランスの詩とかも覚えさせられます

ミラノなどの大きな駅では

高さ二九00メートルのグラン·サッソ山の麓にある町で、標高はなんと一住民の数はわずか1110名足らずだが、いかに小さな町であろうとイ二五0メートルである。
タリアのなかで最も美しい中世のの一つに近年選ばれたと聞けば訪れたくなるだろう。
ら町は一五世紀の中世がそのまま残っているのだ歴史が息づく町並み戦前戦後にかけて、このあたりの村人たちは仕事を求めて大都市やイタリア北部、あるいは過疎化が進んでいた海外へと移住し、しかし、打ち捨てられたかつての美しい町は、ここ110年で少しずつだが人口が戻りつつ輸入食材に頼らず、その土地に古くから伝わる食材や食文化を見直すスローフあった。
アグリツーリズムや、がはやり始め、農家に泊まって農業を一緒に体験する町の魅力ドを再確認する町おこしが始まったからである。
夏になると休暇で帰省する人びとや、山岳地帯に息づく中世の町並みに魅せられる観光客が増えてきた歴史が積層するこうした町の魅力に人びとは気づき始めたのだ。
当然ながら、お洒落なレストランや特産物を売る店も増えてきた。ところが、二00九年四月の震災で再び観光客の姿が減ってしまった。
私がこのチャーミングなサント·ステファノ·ディ·セッサーニさの町を歩いたとき、人影はほとんどなかった。
だが、屋根や壁面を眺めたとき、その素材が昔ながらの石造りであり、どの住居のドアも取っ手が豪華な金色の真ちゅうであったのには驚いた。
何年も何百年もこの取っ手をつかんでドアを開いてきた歴史がこの町にはあるのだどの空間も絵になる場所で、石畳の道がやたらと曲がりくねり複雑にからみあっていた。
ところどころに背丈ほどのトンネルが突然現れたりする。頭がぶつからないかと思いながら少し腰をまるめて歩くとまるでおとぎの国に来た気分になる。
実はこうした迷路状の細い道はよそ者を幻惑させるためだった。美しく維持されたこの町並みを歩いていると本当に中世へタイムスリップしたかのようだった。
さらにこの町には、イタリアの中世の歴史を物語る要塞があるシエナに本拠地をもつピッコロ1ミニ家が一六世紀に建てた高さ一八メートルの円筒形の要「メディチ家の塞だ。
この要塞は、現在ではピッコロ-ミニ家の没落後、この一帯を支配した要塞」として町のシンボルとなっている。
しかしながら二00九年の震災で崩れ落ちてしまい、現在修復中である。
何年かかるかわからないとのことだ。

 

イタリア人でさえあまり訪れない場所です

イタリアの地域色の強さをよく現していますフィレンツェのメディチ家シエナのピッコロ1ミニ家と、かつてこの町を所有したシエナの富豪ピッコロ-ミニ家は、歴史をひもとくと、一二世紀から一三世紀にかけて金融業によって目覚ましい発展を遂げた家系である。
ランゴバルドの家系で、ドイツの神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ二世に忠実に仕えた報奨としてトスカーナ地方のオルチャ渓谷を受け取るという名門中の名門であった。
法王シエナのお隣、フィレンツェのメディチ家はフランスの側を応援していた。
当然、常にライバル関係にあった。その相剋は多くの世界史の本に書かれているが、このアブルッツオが果たした役割に関する史実がいまだに日本では紹介されていないのは残念である。
シェナやフィレンツェの町があれほど豊かになった理由の一つに、この地方が貢献していたことが挙げられるからだ。
それはこの町の周辺の道路沿いを走っていたときにわかったことだった。
シエナとフィレンツェの経済を支えた羊道すがら、私は小さな教会が点在しているのに気がついた。
「なぜ人が住んでない場所に教会があるのだろう」不思議に思っていたそのときである。
羊飼いと羊の群れにばったり遭遇したのだった。緑がない乾いた石灰岩の山肌ばかりのゴツゴツした土地に羊飼いが羊を追う姿は、まるで映画の一場面かと見違えるようであった。
小さな教会は、昔から羊飼いのために造られた祈りの場所であるとともに旅の疲れを癒す休憩所だったのだこの辺り一帯は羊の放牧が盛んで、一四世紀には100万頭の羊がいた。
一六世紀に入るとなんと五五0万頭までにふくれあがったという。
イタリア語でしゃべるとご丁寧に日本語の字幕が出るという趣向

ローマに凱旋しという言葉がイタリア語にはある。トランスマンツァ羊の移動である。つまり、羊飼いは寒い冬がくるとより温暖なプーリア州まその意味は、で草を求めて南下し、春になるとまたラクイラまで北上するのである。
現在は、こうした羊飼いたちが移動する姿はめっきり少なくなってしまった。
イタリアの歴史は前述したとおり、ローマ法王側につく町と、神聖ローマ帝国側につく町との戦いの歴史でもあったわけで、その戦いを勝ち抜くためには軍資金が必要だった。
その資金源がだったわけだ。ラクイラ周辺一帯は毛織物工業が盛んで、毛織物がシエナのピッコロ-ミニ家やフィレンツェのメディチ家に莫大な財産をもたらしたのだ。
中世の花形輸出品がこのアブルッツォ州の町の発展を知る上で重要なことである。
ラクイラ県にあったことは、当時、一般の農民たちは毛織物は高級服として珍重されていた。
粗末な麻織物の洋服を着ており、王侯貴族や教会関係者に求められていたのであるフィレンツェの毛織物工業が銀行業とならんで一大産業だったのは知っていたが、その工場がこのラクイラ一帯にあったことを、この地を踏んでみて知ることができた。
両家のビジネスに大きな影響を及ぽす商品が羊であり、その主導権を求めてなりふり構わぬ攻撃の応酬が中世の時代に続いていたに違いない。
が両家の財力を作ったということアブルッツォの底力はこのは、中世のビジネス展開の一端がこの大地に託されていたのだ。
であった。

ローマーナポリ間と繋がって


羊とともに文化が運ばれた道、トラットゥーロトランスマンツァの話がでたら、言葉がある。
もうひとつ忘れてはならないそれは、トラットゥーロというイタリア語だ。
羊が移動するトランスマンツァための道、という意味だ。
羊飼いは羊たちが草を見つけながら好きな道を選んで南下するのだとばかり思っていたが、まったく違っていて、必ず定まった街道に沿って南下しなければならないのであるそれも鉄道と同じで、出発地点があり終着点があるのだ。
四通りあるなかから選ぶのであるこの移動こそ伝統、宗教、料理にいたるまで古代から何世紀も続く情報伝達でもあり文化交流でもあった。
トラットゥーロ沿いに点在する町は、季節移動する羊の群れにより繁栄する可能性を手に入れられるのだ。
途中で羊の毛を刈り込むことは羊毛製品を作ることにつながるし、チーズなどの乳製品もできる。
また羊の肉を手に入れ加工することもできるのだ。それにしても、群れる」「羊を指しているのがおもしろい。羊は群がって動という漢字はく性質があり、育てていく。管理しやすいのも特徴である。こうして人は羊を守り、その恩恵の歴史が脈々と古代から続いているのがこのアブルッツォなのである。
フェデリコ二世の時代から脈々と続く、もう一つの名産品そして最後にこのラクイラが繁栄したもう一つのビジネスがある。

イタリア語でしゃべるとご丁寧に日本語の字幕が出るという趣向

ミラノやトリノは比較的良くルールを守る方という話なので

イタリアのセリエAは8月下旬から9月初めにシーズンが始まりローマ帝国滅亡後それは日本人の我々にもミラノ風リゾットはこのサフランを使った黄色い色の米料理であお馴染みのサフランである。
る。サフランは他にもスープや魚介類の煮込み料理にもよく使われる。ナヴェッリ平原サフランの里サフランはラクイラ県ので栽培される。
と呼ばここは二0キロメートルも続く平野に110万本のサフランの花が咲き誇る。
現在は年間八〇キログラムのサフランが採れ、昔ながらに一つ一つの花から赤い花柱を手で抜いて乾燥させている。
気の遠くなるような手作業の連続から生まれる高価なもので、世界中に輸出されるが、この歴史を作ったのがあのフェデリコ二世だというのだ。
シチリアで育ったといわれる彼は、サフラン生産が重要なことを知っていた。
その生産に適した土地がこのラクイラ県にあったのだ。サフランによってラクイラの経済が潤ったことも確かである。ヒポクラテスが「豆とサフランを料理することで痛風にもよい」と語ったように、食べる黄金といわれ珍重されていた。
今でもアブルッツォ名物のキターラサフランは古来というパスタの色付けに欠かせない存在だ。
最後に、「ロカンダ·ソット·リ·アルキ」この町にあるレストランに立ち寄ることをお勧ミシュランのガイドブックにも載るほどの美味しいアブめしたい。
星こそついていないが、ルッツオ料理が楽しめる。カペストラーノ「シークレット·メッセージ」カペストラーノという標高四六○メートルの小高い丘の町に行く目的は、この町の麓にある「サン·ピエトロ·アドゥ·オラトリウム」を訪れることだった。
教会その教会の正面壁面に回文がお目当てなのだ。