ローマにおけるクリスチャンの最初の迫害が始まるのでした

新聞記事といえども婉曲な表現が多くなるのであろう

ゆがんだコの字形の壁にずらり九九の噴水門をくぐるとすぐ左にと顔が並んでいた。
その顔は動物のようでもあり人間の喜怒哀楽を表現したようでもあり、奇その口から絶え間なく水が流れ出ている。
妙なものであった。本当に九九個あるのかと思い、九三個目で顔が終わり、私は壁沿いを歩きながらその顔を数えた。
残りの六個は普通の形をしたただの蛇口であった。皇帝フェデリコ二世の都市計画九九という数字は、実はラクイラの周辺に点在する村の数を意味していた。
一三世このラクイラ市内にこの九九の村紀、ラクイラに都市を造る構想をもった皇帝フェデリコ二世は、それぞれの守護聖人を祀っと同数の自治区を造った。
その自治区の名前は村と同じ名前にし、だから、噴水も九九個あるというわけである。
だが、後の調た教会と広場を与えたのだった。村の数は当時七一だったらしい。査でわかったことは、九九はあくまでもラクイラの伝説の数日本で言うならば、とのことだ。
皇帝フェデリコ二世のこの壮大な発想は、江戸と本国を行き来する大名たちの江戸における居住地、つまり大名屋敷をラクイラに造るというような意味合ラクイラ城壁内に力をあわせて一つの同盟国を造る仕組みは、当時の人間には誰ひいである。
とりマネのできない斬新なアイデアであった。
フランス語の規定があり

フィレンツェで生まれ

現代は蛇口をひねれば限りなく水が出てくる時代であるが、当時は旧市街の高台に住む女性ここに立っていると、や子供たちがせっせと水をくみにこの場所に集まってきたのだろう。
女楽しく井戸端会議を繰り広げるにぎやかな話し声髪の毛を洗ったり、性たちが洗濯をしたり、声が形になり暮らしの知恵が生まれる場所である。
が聞こえてくるようだ。震災の傷跡が残る旧市街へ向かって坂を上る。坂道を上る道すがら、なぜ人旧市街いよいよチェントロストリコ確かに防衛上の利点が大きい。
びとはこの高台を選んで生活をしてきたのだろうかと考えた。背後のグラン·サッソ山が城塞となり、争いの絶えない時代から町を守ってきたにちさらに、湿気も少なく清潔であるからペストなどの疫病も遠ざけることができたはずだ。
がいない。当時から山岳地帯に住む人びとは集団で住み、毎朝城門をくぐって農地のある低地へ仕事に行き、再び高台の住まいに戻っていくのが日課であった。
ラクイラは111の門をもつ城壁で囲まれている都市で、バッサーノ門中心の門はと呼ばれる。
その門に近づいて驚いたことは、震災後三年が経過したにもかかわらず、門のそばで数人の警察官が車の規制をしていたことだった。
許可書をもっている車だけが入構可能というわけだ。特に割れたままのガラス窓が町の中は、どの邸宅も傷だらけで人影もまばらであった。
痛々しかった。七万人も住んでいた活気のある町は一体どこに消えたのだろうか。大手銀行や事務所や店舗が重い錠で閉鎖されていた。その扉には蜘蛛の巣が張っていた。皇帝vs法王の権力争いの始まりこの町は前述したフェデリコ二世(一というイタリア史上最も「国際一九四-一二五○)といわれた神聖ローマ帝国の皇帝が築き上げた新しい理想都市であった。

 

ローマ軍により死に追いやられるのでした

ローマに穀物倉庫をたてそのコンセプト人」にはフランスやローマ法王に対抗するための都市計画が念入りに盛り込まれている。
皇帝フェデリコ11世と法王との戦いは、相続問題を含む領土の奪い合いであった。
ドイツの神聖ローマこの皇帝フェデリコ二世から始まる帝国とローマ法王の長い長い権力争いの時代の幕開けは、皇帝派」「法王派という二つの派閥を作ることのである。
それは同時にイタリア全土にとになる。そして、イタリアは神聖ローマ帝国、スペインのアラゴン王家、そしてフランスのアンジュー家の激しい争いに巻き込まれ、翻弄されていくのだった。
聖地エルサレムとフェデリコ二世英才教育によって高い教養を身につけたフェデリコ二世が造りシチリアで育ったといわれ、斬新なラクイラの都市構造には、さらに話の続きがある。
この構造が、「聖地エ出した、あのまず、都市の標高がラクイラは七一四メートル。
ルサレム」と同じ配置をしているというのだ。エルサレムは七四〇メートルとほぼ同じである。さらにラクイラにある重要なモニュメント、サンタ·マリア·ディ·コッレマッジョ大聖堂と九九の噴水が、エルサレムのソロモン宮殿とまたエルサレムにあるケデロン川とラクイラに流れるアテシロアムの池の配置と同じである。
ルノ川の場所も位置関係が同じである。城壁の門も東酉南北に合計11ある。ラクイラの地図を裏返すとエルサレム市と重なり合う。偶然だけでは済まされないのだ。では、なぜフェデリコ二世はラクイラを第二のエルサレムにしようと考えたのだろうか。
学者たちの間ではこの問いにまだ答えは出ていないが、わずかな手がかりをもとに、推測してみよう。
その理由は彼の行動を辿ることで見えてくる。まず、彼はエルサレム王の娘イザベルを結婚相手に選んでいる。愛する婪のために故郷のエルサレムを再現しようと約束したと考えるのは飛躍しすぎかもしれない。
だが、十字軍遠征で戦うことなく語学を駆使した無血の聖地奪を成し遂げたフェデリコ二世としては、聖地このと同じような都市造りをしたいと考ELえるのは突拍子もない発想とはいいきれないだろう。

英語の中学校

打ち捨てられたかつての美しい町はローマ法王と全面対決するにあたり、フェデリコ二世は優秀な人材をキリスト教徒だけにこだわらず、イスラム教徒であろうとユダヤ教徒であろうと、能力があれば国家官僚に登用するらつわん辣腕であった。
さらに、財源がなくては話にならない。そこで、ラクイラ周辺を繁栄させるためにビジネスをどんどん展開していく。
そのビジネスについては後述したい。そんな頼もしい皇帝フェデリコ二世に思いを馳せながら市内を散策した。
だが、車はおろか人影がほとんどなかった。震災からすでに11年も経過しているのに人が住んでいる様子がないのだ。
時おり、老人が道路を掃いている姿があるにはあったが、かつて七万人もが住んでいたとは思えなかった。
「サン·ベルナルディーノ大聖堂」がらんとしたラクイラ市内を歩きながら、なんとしてでも辿り着きたい場所がもう一つあっトスカーナ地方のシエナが誇る聖人ベルナルディーノが眠る教会「サン·ベルナルディーノ大聖堂」である。
地図とガイドブックを見ながら人影のない寂しい石畳を上ってテクテクと歩いていると、時折やせ細った犬がさまよっているのに遭遇した。
一瞬ギョッとして立ち止まると、犬もこちらの様子をうかがっている。
この犬も震災の犠牲になり飼い主を捜して終わりのない旅を続けているに違いない。
過ぎ去ってしばらくすると遠吠えが悲しく聞こえてきた。人間にも動物にも多大な被害と不幸をもたらした地震を恨まないではいられなかった。
比較的広い坂道を上っていくと、突き当たりにまるで一枚の四角い大きな壁のようなものが石段を見下ろすように建っていた。
「サン·ベルナルディーノ大聖堂」これがであった。と言ったのは、あの「サンタ·マリア·ディ·コッレマッジョ大聖堂」と同じく、この教会もファサードが大地に沿って水平に広がる堂々とした長方形だったからである。
大聖堂の前にはローマのスペイン広場を思い起こさせるなだらかに広がる大階段があった。
丘の地形を最大限活かした見事な傑作である。シエナの聖ベルナルディーノは、マッサ·ディ·カラーラの裕福な貴族の家に生まれ、法律を学び後にフランシスコ会の修道士になった人物であった。

ミラノに来てから数カ月後のある夕方


その修道士がシエナから離れたこのラクイラで祀られているのは、六三歳の時にナポリに説教に向かう途中、一四四四年、立ち寄ったこのラクイラで亡くなったからであった。
聖ベルナルディーノを慕っていたラクイラの人びとは、この見晴らしの良い場所に彼を祀ることを決めたのだ。
まだその頃は、現在のような立派な正面ファサードのない教会であった。
制作者はアブルッまもなく霊廟制作が始まり、ツオでは当時一番の名声を得ていた彫刻家のシルヴェストロ·デル·アクイラが選ばれた。
彼は、フィレンツェに工房をもち、レオナルド·ダ·ヴィンチやサンドロ·ボッティチェリを弟子としたアンドレア·デル·ヴェロッキオ、通称ヴェロッキオ親方の弟子だった。
ミケランジェロの夢を叶えた教会その後サン·ベルナルディーノ大聖堂は、二00九年の大地震でもびくともしなかった正面ファサードをもつ現在の姿に発展した。
それが、かのミケランジェロとつながりのあるといわれている。その理由は、彼がフィレンツェで設計したサン·ロレンツォ教会の正面ファサードの図面と酷似しているからだ。
フィレンツェを訪れたことのある人は、未完成で終わっているむき出しの焦げ茶色のレンガだけの教会を知っているだろう。
完成していれば、おそらくこのサン·ベルナルディーノ大聖堂のような姿だった可能性があるのだ。
ミケランジェロのデザインだという確かな証拠は残っていないが、このデザインは当時斬新で、学者たちの間ではミケランジェロにしか設計できないといわれている。
では、一体どういう流れでこのラクイラにミケランジェロのデザインが辿り着いたのだろう5ミケランジェロとラクイラの接点このことに関する資料がないので、あくまでも私の仮説だが、その結びつきはローマにあったのではないかと思うのだ。
一五二四年にこのサン·ベルナルディーノ大聖堂の正面ファサードの設計に携わった建築家はアブルッツォ出身のコッラ·デッラ·マトリーチェという人物であった。
彼がローマで働いていた時期に、実はミケランジェロもローマでシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画を制作していたのだ。
私の仮説はこうだ。メディチ家出身の法王レオ10世がフィレンツェのサン·ロレンツォ教会のファサードの設計をミケランジェロに任せたのは、だが、一五一六年である。
法王レオ-0世が一五二一年に亡くなると資材や資金の調達ができずにファサードは未完成のまま放置されてしまう。
すでに、ミケランジェロは先代の法王ユリウス二世に呼び出されてフィレンツェヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で働き始めていた。

パラティーノの丘の麓にたどり着くのでした

イタリア郵便当局のサービスに代わり

イタリアの場合を離れ、時を同じくして、この礼拝堂にそうそう隣接するサン·ピエトロ大聖堂でも改築が行われており、ブラマンテやラファエロなど錚々たるメンバーが従事していたが、その中に前述した建築家のコッラ·デッラ·マトリーチェも含まれていたのだった。
ミケランジェロはこの一連のフィレンツェのグループらとローマで顔をなんらかの機会にラクイラでサン·ベルナルディーノ大聖堂が建設されることを知る合わせ、自分が設計した未完のサン·ロレンツォ教会のファサード案をこのアブルッツォ出と、後年、身のコッラ·デッラ·マトリーチェに手渡し、叶わなかった夢を彼に託したのではないかと思うのだ。
ミケランジェロの破れた夢が、ここラクイラで叶ったという仮説は、私に想像力を与えてくれた。
完成品「サ教会建築に興味のある人は、ラクイラに足を延ばしてこのと称されたン·ベルナルディーノ大聖堂」を見学して欲しい。
スペイン要塞スペイン要塞旧市街の中心から北に向かって10分ほど上った頂上に、と呼ばれる要塞がある。
城壁の周りは、幅1111メートル、深さ一四メートルの空堀で囲はれている。
スペインという名がついた理由は、ドイツの神聖ローマ帝国、この地にフランスの^^ジュー家、そしてスペインのアラゴン王家が血眼になってイタリアの所有権を主張してきた経ここはそのスペインが所有した時代の証であった。
緯にある。フェデリコ二世亡き後の歴史を物語る建築このラクイラという都市を造ったラスト·エンペラーとまでいわれているフェデリコ二世の亡き後、神聖ローマ帝国の名前はカタチだけのものとなった。
アブルッツォの領地はフランナポリ王国スのアンジュ|家の支配下に収められ、いつしかと呼ばれるようになる。