オーストリアなどに支配される時代が19世紀半ばまで続きました

ミラノでは他人の目がうるさくないのかもしれない

埋め込まれている謎のラテン語の彫刻の攬により有名になった町カペストラーノ「戦士カペストの名をイタリア中に一躍有名にさせたのは、紀元前六世紀のという彫刻の発見だった。
この町の郊外にある畑をある農民が耕しているときに偶然ラーノ」掘りおこすとこの彫刻だったのである。
一九三四年のことであった。何か硬いものにあたり、そこはかつて古代人のだった。町の麓にある目的の教会に行く前に、まず、人口わずか九五二人の町を見ることにした。
町に近づいたとき、立派な城塞が見えた。案内書にはかつてフィレンツェと覇権を争ったシエナこのあたり一帯はかつて皇帝フェデリコ二世ののピッコロ-ミニ家の城だと記されてあった。
配下にあったシエナの縄張りだったのだ。広場に駐車し、城塞に向かって歩いて行った。城の門をくぐると城内に入る前に階段があり、ゆっくり上ると途中の左手にくぼみがあった。
覗い戦士カペストラーノが立っていた。だが、てみると奥に11メートルはある例のこれは残念実物はこの旅の最後に訪れるキエティ県のキエティ市にあるアブルッながらレプリカだった。
ツォ国立考古学博物館に飾ってあるのだ。これは旅の最後のお楽しみとなった。「サン·ピエトロ·アドゥ·オラトリウム」へ急ぎ足で町に別れを告げ、丘の上の町を下った。
麓の平坦な一般道路を走っていくと、茶色い看板に白い文字で書かれた「サン·ピエトロ·アドゥ·オラトリウム」の標識が見えた!
見落としそうになったぐらい小さな標識で、瞬、教会を観光客に向けてアピールする気配はまったくなかった。
国道から入った道は農道のようだった。鬱蒼とした森が近づくとその先はもう道がない。森の手前に広場があり、どうやらここから林のなかを歩いて教会に行くらしい。
歩き始めてしばらくすると川のせせらぎが聞こえ、林をぬけたところに、お目当てのそれはあった。
これが教会?荒々しく素朴な壁面に、三つの半円形の祭室がべったりと張り付いた後陣がみえた。
教会のまわりには高い柵が張りめぐらされ、施錠されて中に入ることはできなかった。
教会の名前がオラトリウムとあることから、礼拝堂にちがい一般の教会というよりもさらに小さなない。
教会の正面を見るには柵の中に入らなければならなかった。途方にくれていたところに、一組のカップルが歩いてきた。
イタリア語でしゃべるとご丁寧に日本語の字幕が出るという趣向

イタリアではアパートの壁や鉄柵に藤を這わせることが多く

軽く会釈をするとイギリスから来ていて、丘の上の町に最近別荘を買ったという話を始めた。
毎年このカペストラーノで夏を過ごすのが恒例になっているという。
女性が柵の扉に貼られた文字をさして「教会内に入りたい人は電話をかけてください、ってここに書いてあるでしょう。
電話をか今、けるので一緒に待っていましょう。すぐ来るみたいよ」すると五分もしないで教会の門番らしき老人がスクーターでやってきた。
老人はアジア人の私を珍しそうに見ながらも愛想よく握手を求め、いくつもある鍵のなかから一つをつかんで教会の正面に向かい、鍵を開けてくれた。
オラトリウムの中へ世俗から隔離されたこの小さな教会は、誰も侵すことができない孤立感すら感じられ、何かとても近寄りがたい高潔な雰囲気をもっていた。
質素な造りからだけでなく、森を切り開いた平地に建つ教会の環境がそうさせていたのである。
パワースポット日本でいうを思わせるような磁場があるような気がしてならなかった。
装飾もなくただシンプルなファサードの前に私は駆け寄った。回文は扉口の左脇のやや上に、四角い切石に刻まれていた。ガイドブックにある写真と同じ縦五文字、横五文字の合計二五文字のアルファベットが壁面のひとつのブロックに刻まれていた。
文字が逆さまであるそれも、謎がたっぷり詰まっているこの回文についての考察は後でじっくりすることにして、ひとまず教会の内部に入った。

 

温泉が各地にある

イタリアではないと罵ったりするおもわず息を呑むような荘厳さと教会独特のあのヒンヤリした冷教会内は静謐で厳かなただ祈りだけを捧げる場気が私の気持ちを一気に引き締めた。
やはり、所というイメージであった。中央通路の両側には柱がいくつもあったが、地震の影響でひびが入っていた。
ラクイラの「サンタ·マリア·ディ·コッレマッジョ大聖堂」で見たあの悲しい姿と同じであった。
とはいえ、深閑とした無垢のイメージがそこには横たわっていた。一番奥まで行くと、正面の壁の上にフレスコ画が描かれていた。中央に神が描かれ、その両側にそれぞれ11人の老人たちが、その神の方向に向いていた。
神の左手には書物があった。さきほど一緒に中に入ったイギリス人カップルは、このフレスコ画の前に立ち、長老たちの人数を数えていた。
回文とフレスコ画に込められた謎私はゆっくりと出口に向かった。教会内の柔らかい光に目が慣れていたので外の光が眩しかった。思い切り深呼吸をしてから、もう一度ファサードを眺めた。そこには、次のように端正でみごとな文字列が逆さまに輝いていた。
SATORAREPOTENETOPERAROTAS左右どちらから読んでも、また上下どちから読んでも、また逆さまに読んでも「SATORと読めるのだ。
AREPOOPERAROTAS」TENET私がじっとその壁を見ていると、門番の老人が近づいてきて「この回文と同じ文句がイタリアには幾つもあるんだよ。
シエナの大聖堂やポンペイの近くのへルクラネウムの遺跡とかにね。

緒に観に行ったり

ミラノもポー河流域のパダーニャ平原のど真ん中だからイギリスのサイレンセスターやシリアのドゥラ·エウロポス遺跡にもね……」この回文には謎が多く、研究されてはいるが決定的な意味はまだわかっていないの老人は、アレポという農民が馬を曳いだと、まるでガイドのように教えてくれた。
この言葉の意味は、意訳すれば「神は創造て農地を耕し仕事をする」となる。
(ROTASと人間の手仕事。をご覧になるPERA)と大地の産物REPOというようなことである。
実はもっと深い意味があることがその後わかった。それはこの二五文字をバラバラにしてシャッフルし、その中の111文字を組み合わせると、「PATER1われらのNOSTER父」という文字が縦と横に十字架の形に配置できるというのだ。
ただ単に、言葉をシャッフルして文字を十字架にするのではなく、この十文字も上からも左からも同じように読めるのだ。Aと0の文字がそれぞれ11個ずつ余るのだが、この残りの四文字のAと0にも隠された意味があったのだ。
このとき、私は身震いがした。先ほど教会内部のフレスコ画の前で、イギリス人夫妻が、神が左手にもつ書物にAと0が描かれていると話していたのを思い出したからであるなんということだろう。
教会の外の壁に描かれたラテン語の回文の文字をシャッフルし、十文字を作ったときに余る文字と、教会内のフレスコ画に描かれている物語が同じメッセージだったのだ。
実はこの絵は新約聖書ョハネの黙示録の中に出てくる物語であった。
それは、イ·キリストが、パトモス島に幽閉されたヨハネを訪れる場面で、イエスがヨハネにこう語エスるのである私はアルファであり、最後であると。
オメガである。最初であり、ギリシャ語で最初に発音されるアルファベットの文字は、アルファ=Alphaで、最後の文字はオメガOmegaであった。
それぞれの頭文字がなのだ。Aとギリシャ語は世界制覇をなしとげたアレクサンダー大王の東征をきっかけに、紀元前一世紀、各地に散らばったギリシャ系移民者たちによって国際的な標準語になっていた。
新約聖書のほとんどの著者がユダヤ人ではあったが、新約聖書はギリシャ語で書かれ、その後ラテン語に翻訳される。

イタリア語は日本語同様


ヨハネの黙示録「私はアルファであり、の二一章六節と二二章一三節にあるオメガである最初であり、のくだりは、キリスト教信者にとってなじみがあった。
つまり、最後である」イ·キリストがと言っていると解釈できるからだ。
”神は自分である”エス「それじゃ、まるで阿吽の呼吸みたい」と私は思わず連想した。
とは日本語の最初と最後で、万物の始まりから終わりまでを象徴するあ3とうん⑤言葉である。
日本人がよく使う言葉だが、何か物事を突き詰めていくと西洋の神」も東洋の「神もカタチこそ違うが、どこか通じ合うものがあるのではないか、とふと感じたのであるきら「サン·ピエトロ·アドゥ·オラトリウム」教会の外見を見る限り、この小さな美しくも煌びやかでも、ましてやバラ窓があるわけでもない。
ちょっと見たところまるで倉庫のような建だが、実は非常に由緒正しい教会であった。
物なのだ。かつてローマ法王として選ばれたシエナ出身のピウス三世在位一五○三年が法王になる直前にこの教会を訪れて講話をしたという記録がある。
ピウス三世とは、シエナのピッコロミニ家出身で、1111歳でシエナの大司教になった高徳の清い人物である。
このカペストラーノ回文が実は、と同じシエナ大聖堂の扉の左上に目立たないように埋め込まれているのは偶然なのだろうか。
ヨーロッパ各地に点在する回文「サン·ピエトロ·アドゥ·オラトリウム」教会が建立された1111世紀、西ヨーロッパ世界は十字軍」「エルサレムの時代であった。

ローマで顔を合わせ

イタリアらしくないと言う点では外国

老若男女を問わぬ現象とかキリスト教徒たちにとって新しい世界であるを知同時に異端思想が芽生え始める時期でもあった。
権力がしみこんだ高位聖職者たちることは、のぜいたくな暮らしを見ていた修道士たちにとって、この「サン·ピエトロ·アドゥ·オラトリウム」教会こそ本来の原点であるキリスト教に立ち戻れる象徴だったのではないだろうか立ち戻るとはつまり、回文」「われらの父に埋め込まれているを信じるということである回文についても調べた。
帰国後、私は他の地にあるラテン語のイギリスのロンドンから11時間ほど離れた場所から発見されたのは、古代ローマ人の別荘のフレスコ画に刻まれていたものである。
紀元11世紀頃だという。回文ローマ郊外にあるヴァルヴィッショーロ修道院にもがあった。
この修道院はギリシャ人の修道士によって八世紀に建てられたものであるローマの四大バシリカ一般の教会よりも高位に位置づけられた教会の一つに数えられる回文が見つかったという。
サンタ·マリア·マッジョーレ大聖堂の地下でも最近このイタ回文リアにはこの他にも一六か所の教会の壁面にが刻み込まれているのが発見されているフランスとスイスに国境を接しているアオスタのサントルソ教会ではモザイクのなかにが埋め込まれている。
文さらに歴史の襞が浮かびあがってきた。回文フランスで見つかったがある場所は、ピレネー山中のフランスとスペインの国境付ガラムス渓谷に建てられた教会であった。
近にある岩をくり貫いたカタリ派そこは一二四四年にフランス国王の怒りを買い異端として大弾圧を受けたの最後の場所である。