イタリア料理の先駆者

イタリア経済に過度な負担となり

そして、一六世紀に入ると次はスペインのアラゴン王家の時代になる。
スペイン要塞このはスペイン国王カルロス1世神聖ローマ皇帝カール五世を讃えて作られたモニュメントだったのだ。
陽の沈むことなきあのといわれた大帝国を築き上げたハプスブルク家のスペイン国王カルロス1世である。
ルネサンス様式で造られているが、建設費用が莫大となり三0年間の重税にあえいだ住民は一五六七年にスペイン側に建設の中止を嘆願したという。
いまでも未完成のままなのは当時の住民の声を受け入れた結果だった。
1100九年四月の大震災で一部が崩れると、スペイン政府は専門家を現地に派遣し、修復費用を請け負った。
時代は移っているがいまだに強い絆でスペインと結ばれていることを私は後で知ったのだった。
現在は素晴らしい公共空間に蘇り、を渡ればそこは国立この要塞は、によって長い歴史と現在が結ばれているのであ博物館として立派に機能している。
このアブルッツォの多くの芸術家の作品が飾られ、「サン·ベルナルディーノ大聖堂」る。
の聖堂内にある聖ベルナルディーノの霊廟を制作した前述のシルヴェストロ·デル·アクイラの傑作聖セバスティアン主にルネサンス期に制作されたものが主流で、も見られる。

パラティーノの丘の麓にたどり着くのでした

イタリアで電気製品を使う時にもう一つ注意しなければならないのは

そのレベルアブルッツォで一番大きなはフィレンツェで開花した芸術家たちと肩を並べるほどだという。
要塞として知られているが、皮肉にも一度として戦争に使われたことはなかった。
アブルッツォ名産のお菓子、トローネ歩き疲れてしまい一息入れようとバールに立ち寄った。
スペイン要塞を後にした私は、コ「観光客が来なくなり、ヒーを頼むと経営者らしき中年のイタリア人が実に寂しい町になって私は彼の悲しみを正視できずに、とため息をもらした。
棚に沢山積まれていたおしまったよ」とうなずいた。私の視線に気づいたのか、ト菓子を眺めながらそうみたいですねすると、ローネを食べたことがある?
と、長細い箱から中身を取り出し、ナイフでここの名産だよカットしてくれたトローネとはオブラートで包まれている硬いヌガー菓子で、その中にアーモンドなどのナッツがぎっしり入っているアブルッツォの名産であった。
箱を手にして裏返すと創業一八三五年のものだった。口に入れると、と書かれたお菓子会社ヌルツィアチョコレートとナッツの一気に旅の疲れが取れたのだ。
そして少し重たくなった腰を上げ、絶妙なハーモニーが広がり、バールを出て旧市街の外に向かったのだった。
今なお残る、震災の爪痕城壁の門に近づくとその手前に佇む住宅の前で私は足を止めた。
二00九年の震災後に立ち被災者が付けたと思われる色あせたリボンが金入り禁止の金網が住宅の周りに張り巡らされ、倒壊した家の鍵も無数にぶら下がっていた。
網のいたるところに結ばれてあったからだ。家があっても町がないと書かれたメモ用紙が目に飛び込んできた。

 

イタリアの北部はゲルマン系のランゴバルド族の侵入を受け

イタリアは80年ぶりにそのとき、生命と財産が自然の猛威の前では実にはかなく消えてしまう現実がそこにはあった。
無情という言葉しか出てこなかった。この町を捨てずにバールを経営している人びとがいるのだ。ホテルを再開した経営者だが、強くて優しいと形容されてきたという。
たちも見かけた。昔から、アブルッツォの人びとは再びこの街に七万人が戻ってくる日が必ずあるだろう。
日本との結びつき紙の音楽ホール秋の陽はつるべ落としというが、日が暮れてもラクイラで最後にどうしても訪れたい場所があった。
それはG8に参加した、当時の麻生太郎首相が二00九年四月の大地震に対して約七コンサートホール千万円の支援を決定し、である。
ラクイラ市の復興支援に協力したそのホールは旧市街から少し離れた丘の上に、音楽院と共に建設された。
建築家·坂茂氏の被災地支援ばんしげる音楽ホールの設計者は日本人建築家、坂茂さんである。
彼は二〇一一年五月七日の落成式でこう述べている。「打楽器の小さな音が次第に盛り上がっていく”ボレロ”は、一歩一歩ひろがっていくこのブロジェクトそのものだ」「大災害に苦しむ日本から素晴らしい贈り物をいただきうれしい。
ラクイラ市長はラクイラと挨拶した。
ローマで顔を合わせ

車の後ろに菊の花を満載して走っている墓参りの車もあちこちで見る市民は誰よりも東北に寄り添っている」この落成式の数か月前の11月11日、日本で大地震が起こるとはラクイラ市民の誰が予想しただろうか。
指揮者に選ばれたのはロシア国立交響楽団当時の酉本智実さんであった。
地「ガブリエ元のアルフレッド·カセッラ音楽院オーケストラと共に、エンニオ·モリコーネのも披露され、最後は三00人のスタンディングオベーションで幕を閉じた。
ルのオーボエ」被災地支援でも知られる世界的設計者である坂さんはをつかった仮設住宅建設など、な建築家である。
彼は世界の災害復興に建築という具体的な解決方法でいくつものプロジェクトに取り組んでいる辣腕であった。
地震直後、坂さんはすぐにラクイラ市長に連絡を入れると、町の交響楽団や音楽院の学生たちが演奏をする場所がなくなったことを知り、自ら仮設音楽ホールを造りたいとラクイラ市に申し出たのだ。
ただ連絡しただけではない。市長にみずからのプロジェクトを了承してもらうために、現地へ何度も足を運び、その熱意と誠意を示したのだ。
天災の中で人の心を強くするのは、一人ひとりが支え合う力だということを実行した人である今、私は丘の上の音楽ホールに立っている。
満天の星の下でラクイラ市の夜景を見ると光の点滅がなんと少ないことか。
復興を加速し本来の活気あるラクイラ市に早く戻って欲しいと願ってこの町を立ち去った。
パガニカ大地震の体験者ラクイラ市から八キロほど離れたところにパガニカという小さな町がある。
この町も1100九年の震災で被害を受けていた。ここには、ある貴族の館を改良した四ツ星ホテルがある。そドラゴネッティ家だ。「ホの貴族とはこのあたり一帯を治めていたホテルの名もそのままテル·ドラゴネッティ」であった。
もともとは一六世紀の建築で、ホテル内には動物や植物の絵が天井から壁一面に描かれていた。
パンフレットを読むと、この館では宿泊だけではなくクッキング教室、結婚式、披露宴などパーティにも使われ、訪れる旅人をもてなす術があるホテル·ドラゴネッティで出会った貴婦人ホテルのロビーに座っていると、奥の食堂からステッキをつきながら一人の品のよい貴婦人が背中を丸めて歩いてきた。

イタリアのどこの地域でも産するワインの事を聞いてみると面白い


やさしく微笑みかけられ、私が日本から来たことを知ると彼女の表情が喜びに変わった。
そして足を止め、身の上話をし始めた。よく、遠いところから。おいでくださったわね、私の名前はね、フェルナンダ·バラレッティ·バルドニというのよ。
ラクイラ市に住んでいたけれど、11年前の地震で家の柱に何本もひびが入り、危険で住めない状態になったの。
あの日、夜中の四時頃に息子がすぐに車で迎え車が発車したとき、に来てくれてね。
私と夫を車に押し込むようにして家を立ち去ったの。ドカーンという大きな音がして後ろを振り向いたら道路がぱっくり割れ大きな穴ができたのよ。
一分でも遅かったらこの世にはもういなかったわ。だって、後ろの車はその大きな穴に落ちてしまったのだから。命が助かったのは息子のおかげなの。家があるのにその家に帰れなでも、いのは悔しいわ。でもね、不幸というものは誰のせいでもないのよ。誰かのせいにしたところで、天災を憎み、天を恨んだところで、人は救われないの。
天災はなくならないの。愛する息子もいるし、これから日本このホテルにいられるだけ幸せよ。
最後に残るのは愛だけなのよ。もまだまだ大変でしょう。こんな小さな村でも人びとは日本を応援しているのを忘れないでくそれから日本人の建築家の方が、ださいね。
ラクイラに音楽ホールを造ってくださったでしょう。夫もあの世で感謝していると思います夫が心労で震災から1年後に亡くなったといここまで話すと急に婦人は目に涙をため始め、うことをポツリと告げた。
首を少し振りながら、夫が亡くなる直前までラクイラのバラレッティ音楽協会理事長を務めたと誇らしげに語るのだった。
そばでホテルのオーナーがこの老婦人をじっと見つめて微笑んでいた。
彼は私の息子よ。あの子が助けてくれたのと彼女は誇らしげにオーナーを指さした。素晴らしい息子をもった貴婦人の話であった。多くの人の命を奪ったラクイラの大震災から、この婦人のように紙一重で逃れた人びとがいたのであるいや絶望感に襲われたとき、人を癒すのはやはり人しかいないとこのとき感じた。

そしてフランス系のアンジュ一家と次々と変わり

バロック期の絵画や古代

イタリアだが互いに温かい励ましの言葉を交わすことで、なぜ自分の町が、なぜ自分の家が人は救われるものなのだ。
なぜ自分の家族だけがと嘆くのが人の常である。頭に浮かぶのはいつもなぜの二文字であるが、なぜにはきっと答えはでないだろう。
私はこの小さな村で、この人間の営みの断片を眺め、日本の地震の話を共有できたことは幸いであった。
経験することでしか、人は人に共感できないのかもしれない。一年三月11日の大地震を東京で経験しただけの私だが二〇一の地震の不条理さやその絶望感を遠いこのラクイラの地の人びとと共感できたのはうれしかった。
やはり、心が救われたのは、日本政府と日本人建築家がこの地に音楽ホールを造る計画をし、ただちに資金を出して実行に取りかかったことである。
目に見える形で日本政府が応援私は日本人として誇りに思った。紙の音楽ホールから流れる音色は、したことを、ラクイラ人びとにこれからも力と癒しを与えるだろう。
最後にホテルのオーナーが、マドンナ·ダパリ教会を観に行くといこの町の近くにあるいですよ、と教えてくれた。
一五世紀に建てられた教会の由来は、羊飼いの青年に恋をした少お告げ女が安否を毎日祈っていた時に、夢の中でこの場所に教会を作るようにと神からがあったのだという。